折々の記 10

節分の日に思う

 

早いもので今年もひと月が過ぎ、節分を迎える。

本来節分は年に4回、立春立夏立秋立冬のそれぞれ前日をさす言葉であるが、いつの間にか立春をさす言葉のようになってしまった。

一陽来復

一年で一番寒い時期から再び季節が廻り始める意味で、特にこの時期を指すようになったのかも知れない。

2月3日には我が家でも豆まきをするのが習わしだ。

お寺だからという意味ではなく、何とはなしに福が舞い込んできて、一年を幸せに過ごせそうな気持にさせてくれるのである。

本来豆まきに登場する鬼たちは、その体の色によって意味分けがなされていたらしい。

赤鬼なら貪欲、青鬼なら瞋恚(怒り)、黒鬼なら疑心といったように、本来人間が持つ「善くない心」を豆まきとともに追い出すのである。

ただ、陽のある間は大声で「鬼は外、福は内!」などとやるのは少し恥ずかしいので、暗くなってからするようにしている。

本堂には何日も前から豆をお供えしてあり、お経の功徳が詰まった豆を撒き、そのあとで残った豆を数え年の数だけ頂く。

齢60歳を超すと食べることも大変になるので、還暦分(60粒)を省略して残りの数だけ頂いている。

ただ、年齢とともに煩悩の数が増えてきているようにも思え、数の誤魔化しは善くないのかも知れない。

人は年齢とともに家族が増え、子供の数だけ、孫の数だけ、その幸せを願うようになる。

歳をとるほど煩悩が増えるのは仕方のないこと。

そして今年はその煩悩に、大きなものが一つ加わった。

正月の地震によってお亡くなりになられた方々の安養浄土と、残されて悲しみの未だ癒えない方々の離苦得楽である。

一陽来復

必ずまた陽の射す時がやって来る。

節分が季節を分けるように、必ず笑い合える時が来ることを祈っている。