折々の記 11

春の陽射し

 

久しぶりに朝から気持ちよく晴れ渡った。

2月とは言え日差しはまさに春のそれである。

犬のお散歩コースにある白梅も八分咲きと、頃合いである。

わたしは梅花は蕾の頃が好きだ。

寒さの中に春の到来を予感させるものがある。

蕾が少し膨らんで、今まさに花開かんとする直前のまん丸とした姿が何とも可愛いのである。

桜花が春の到来を告げる花ならば、梅花は春を予告する花であろう。

いずれにせよ、今日のような温かい日差しに咲く梅花は、暗く沈んだ季節に飽き飽きした人間の心を上向きにしてくれる。

私のお寺から眺める田畑の景色も、秋に収穫されたままの田んぼの横に、耕して中の黒い土を見せる田んぼが増えてきた。

眠ったままの田んぼが目覚める日も近い。

さて、私の好きな言葉に

「梅花匂いありと云えども 好まずば何ぞその清雅を聞かん」

というのがある。

梅の馥郁たる香は、しかし興味のないものにはそこいらの花と大差がないもの。

寒さに耐え、時に雪をその枝に纏いながらも凛として咲く姿には、香だけにとどまらない何とも言えぬ風情がある。

そして、桜が日本人の死生観を表しているのに対して、梅は万物の再生を表しているように思うのである。

そういった感覚が梅花を花や香りだけにとどまらず、一段格式の高い花にしているのではなかろうか。

折しも暖かな日差しを受け、明日にも満開となるであろう梅は立春の主役である。

春の陽射しは間違いなく万物再生のためのエネルギーを惜しみなく注ぎ込み、私をも再生させんとしてくれている。