折々の記 15

桜咲き 桜散る

 

今年の桜は開花が遅れた。

例年なら3月の彼岸明けには開花し、3月末には満開を迎える。

今年はその3月の末に開花し、4月の7日頃に満開を迎えた。

私のお寺の前は桜並木があり、また池を挟んだ小さな公園にも何本かの桜が植えられており、この土日はそこそこの人出があり、にぎやかな声が響いていた。

そして雨の月曜日、車に乗り込もうとしたところ、車のボディにはこれでもかと言うほどの桜の花びらが付着しており、見事にピンクに染め上げられていたのである。

桜散らしの雨風は容赦なく桜に打ち付けられ、せっかくの満開がもう長くはない事を教えられた。

梅は春を予感させる花であり、桜は春の到来を告げる花である。

遅れに遅れて、やっと到来した春をあっという間に連れ去られてしまうような気持ちと、やっと来てくれた春をもっと味合わせてほしかったという心残りが、今の私の心を複雑にしている。

しかし、桜とは本来そういう花なのだ。

何処でだったか忘れたが、「葬春花」と書いて「さくら」と読ませる漫画を読んだ覚えがある。

その時は「ちょっと無理があるだろう。」と思ったものだが、この歳になって「つくづく上手く読ませたものだ。」と感心してしまう。

桜とはまさに花神の使いなのだ。

春の到来を告げるためだけに咲き、春が来た途端に花神のもとに帰って行く。

今年も桜が咲き、そして散っていく。

その姿に、人々に春の到来を告げるという大切な使命を帯びてこの世に生まれた桜へのオマージュを覚えずにはいられないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

折々の記 14

もうそろそろ・・・

今年は春が遅い。

2月は暖かい日が多かったせいか、桜の開花も早くなるのではと思っていたが、3月に入ってから寒い日が続き、当初の予想を大きく裏切って大阪の桜の開花予想はこの月の末日になるとのことだ。

私のお寺では毎年この時期に「お花見コンサート」なるものを企画している。

3月の末か4月の第一日曜に日を設定しているのであるが、今まで満開に当たったことが無い。ほとんどが「葉桜コンサート」になってしまい、今年こそはと3月31日に日時を決めたのだが、今年は「蕾コンサート」となりそうである。

出演者の日程も考慮して半年以上前に日程を決めるのであるが、ことごとく外してしまうというのは私に運がないためか、はたまた日頃の行いなのか・・・。

とりわけ今年の日程にはかなりの自信があったのだが・・・。

それはさて置き、今日は朝まできつい雨模様だったが、お昼を前にきれいに晴れ上がってきた。

日差しはまさに春のそれである。

つい先日、彼岸の最中には吹雪が舞っていたというのに。

もうそろそろ・・・

そんな心のざわめきが聞こえてきそうである。

人生も後半戦になって来ると、「あと何回、この穏やかな春の光景を眺めることができるのだろう。」などと思ってみたりする。

そう・・・人間には誰にもタイムリミットがあるのだ。

だからこそ、今年だけの春を思いっきり楽しもうではないか。

我が家にやって来た四国犬のカイ君も、クシャミと目のかゆみに悩まされながらも、尻尾を振り振りお散歩を楽しんでいる。

暖かい日差しの下、おにぎり一つと水筒を持って、近くの公園や土手でランチするのも素敵なことではないか。

今、私のお寺から眺める景色には、これから耕作が始まるであろう田畑に黄緑色の草が伸び始めている。

もうそろそろ・・・

皆が本格的に動き出す春が来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

折々の記 13

なごり雪 空から

 

3月に入ってよく雨が降る。

一雨ごとに春が近づいていることにささやかな喜びを感じていた今日、朝から寒さがぶり返したような気配があった。

確かに空はどんよりと曇り、「ひと雨来るのかな?」と思っていると、小さな白い粒が手のひらに舞い降りてきた。

小さな小さな粉雪だ。

吹雪くのではなく、ちらほらと頼りなげに舞い降りてくる。

あと一週間ほどでお彼岸である。

こんな時期に雪とは・・・

そういえば、・・・ふと思い返してみると今年の冬は暖冬だったせいか、ほとんど雪を見ていない。

私の住む大阪の北河内は、もともと雪には縁の薄い土地だ。

吹雪くことはあっても積もるということは滅多にない。

ましてや暖冬となると、今年は降ったのを数回見た程度であった。

それがここにきて彼岸の入りを前になごり雪である。

往く冬の名残を惜しむかのように少し遠慮がちに空を舞う粉雪に、今年の冬が終わりを告げていることに思いを馳せた。

風はいよいよ冷たい。

それでも時折り雲間から覗く太陽は間違いなく春のそれだ。

ただでさえ印象の薄い今年の冬を「どうか忘れないで。」と、懇願しているのかも知れない。

なごり雪は地面に落ちて風と共に流され、瞬く間に視界から消え去ってしまう。

儚い命であるだけに何故か心に残る。

昨秋に訪れた日和田はまだ雪の中であろう。

私の住む大阪はもうすぐ春が来ます。

春はきっと駆け足でやって来るはず。

日和田の山々に新しい命が芽吹くのもそう遠くはないでしょう。

身を切るような冷たい風にも、どことなく暖かさを感じることのできる今日です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

折々の記 12

今年はうるう年

 

早いもので今年も2月が終わろうとしている。

今年は4年に一度の閏年ということもあってか、ほんの少しだけ得をしたような気持になる。

たった一日、されど一日。

この貴重な一日をどのように過ごすのかで、その人の人間性が見えてくる。・・・ような気がするのは私だけであろうか?

明日からは3月。いわゆる彼岸月である。

夜明けも少しづつではあるが早くなってきていることが分かる。

私は毎朝4時に起床している。

6時に釣鐘をつくのだが、2時間の間に本堂と地蔵堂、お内仏のお勤めを済ませ、山門を開けてラジオの時報を待つ。

先月まではまだ夜の闇としか思えなかった辺りの景色が、今朝見ると黒色から少し青みがかった空に変わってきており、少しずつ夜明けが早まっているのを感じることができた。

釣鐘の音が伝わっているからであろうか、時報とともに打つ鐘の音に合わせるように鐘楼から見える家々に明かりが灯ってゆくのが何とも嬉しい。

鐘の響きが生活の中の一部としてとけこんでいることを実感する。

こうして今日も普段と同じ一日が始まった。

恐らくは大多数の人にとって、例え4年に一度の2月29日であっても普段の生活と変わることはないであろう。

365日が366日になったとしても変わりようもないのが現実である。

しかし、今日のこの一日の中で出会う人がひょっとするとこれからの自分を大きく変えてくれるかも知れない。

・・・そんな運命の一日だったとしたら・・・。

こんなことはしていられない!

ワクワクを胸に、すぐに外へ出かけよう!

還暦を過ぎると、残された寿命がもうあまりない事を実感する。あと何回閏年を迎えられるだろう。

”朝露(ちょうろ)たちまち消え 電光すなはち過ぐ”

朝露は朝の陽光とともに消え、稲光は瞬間に過ぎてしまう。

どちらも人の命の儚さを述べた言葉であるが、この得をしたおまけの一日が自分にとって掛け替えのないものになってほしい。・・・そう願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

折々の記 11

春の陽射し

 

久しぶりに朝から気持ちよく晴れ渡った。

2月とは言え日差しはまさに春のそれである。

犬のお散歩コースにある白梅も八分咲きと、頃合いである。

わたしは梅花は蕾の頃が好きだ。

寒さの中に春の到来を予感させるものがある。

蕾が少し膨らんで、今まさに花開かんとする直前のまん丸とした姿が何とも可愛いのである。

桜花が春の到来を告げる花ならば、梅花は春を予告する花であろう。

いずれにせよ、今日のような温かい日差しに咲く梅花は、暗く沈んだ季節に飽き飽きした人間の心を上向きにしてくれる。

私のお寺から眺める田畑の景色も、秋に収穫されたままの田んぼの横に、耕して中の黒い土を見せる田んぼが増えてきた。

眠ったままの田んぼが目覚める日も近い。

さて、私の好きな言葉に

「梅花匂いありと云えども 好まずば何ぞその清雅を聞かん」

というのがある。

梅の馥郁たる香は、しかし興味のないものにはそこいらの花と大差がないもの。

寒さに耐え、時に雪をその枝に纏いながらも凛として咲く姿には、香だけにとどまらない何とも言えぬ風情がある。

そして、桜が日本人の死生観を表しているのに対して、梅は万物の再生を表しているように思うのである。

そういった感覚が梅花を花や香りだけにとどまらず、一段格式の高い花にしているのではなかろうか。

折しも暖かな日差しを受け、明日にも満開となるであろう梅は立春の主役である。

春の陽射しは間違いなく万物再生のためのエネルギーを惜しみなく注ぎ込み、私をも再生させんとしてくれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

折々の記 10

節分の日に思う

 

早いもので今年もひと月が過ぎ、節分を迎える。

本来節分は年に4回、立春立夏立秋立冬のそれぞれ前日をさす言葉であるが、いつの間にか立春をさす言葉のようになってしまった。

一陽来復

一年で一番寒い時期から再び季節が廻り始める意味で、特にこの時期を指すようになったのかも知れない。

2月3日には我が家でも豆まきをするのが習わしだ。

お寺だからという意味ではなく、何とはなしに福が舞い込んできて、一年を幸せに過ごせそうな気持にさせてくれるのである。

本来豆まきに登場する鬼たちは、その体の色によって意味分けがなされていたらしい。

赤鬼なら貪欲、青鬼なら瞋恚(怒り)、黒鬼なら疑心といったように、本来人間が持つ「善くない心」を豆まきとともに追い出すのである。

ただ、陽のある間は大声で「鬼は外、福は内!」などとやるのは少し恥ずかしいので、暗くなってからするようにしている。

本堂には何日も前から豆をお供えしてあり、お経の功徳が詰まった豆を撒き、そのあとで残った豆を数え年の数だけ頂く。

齢60歳を超すと食べることも大変になるので、還暦分(60粒)を省略して残りの数だけ頂いている。

ただ、年齢とともに煩悩の数が増えてきているようにも思え、数の誤魔化しは善くないのかも知れない。

人は年齢とともに家族が増え、子供の数だけ、孫の数だけ、その幸せを願うようになる。

歳をとるほど煩悩が増えるのは仕方のないこと。

そして今年はその煩悩に、大きなものが一つ加わった。

正月の地震によってお亡くなりになられた方々の安養浄土と、残されて悲しみの未だ癒えない方々の離苦得楽である。

一陽来復

必ずまた陽の射す時がやって来る。

節分が季節を分けるように、必ず笑い合える時が来ることを祈っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

折々の記 9

突然の冬、そして春の兆し

 

暖冬が続いていたと思ったら突然一級の寒波がやってきた。

近年、我が家の辺りは冬場と云えども雪を見ることが少なくなった。

・・・そう思っていた所に雪が舞い降りてきた。

遠く北摂の山々を見渡すと雪雲がかかり、山肌が霞んで見える。

これが本来の季節なのだということに改めて気がつかされた。

とは言え、このあたりに降る雪は北国に住まう方々からすればまるでお遊びのようなものである。

加えて、能登地方をはじめとする越前、越中、越後にかけて暮らしておられる方々にとっては、大地震のあとの大雪は苦しみに追い打ちをかけられるような思いであろう。

ただただ祈ることしかできない。

そんな中、道を歩いていて一本の梅の木を見かけた。

よく見るとその枝には遠慮がちに膨らんだ白梅の蕾がいくつも付いている。

この冬一番の寒気と、雪の舞う中で、季節は間違いなく歩みを進めているようだ。

”冬来たりなば春遠からじ“

そうか! この雪は春を連れてくる妖精のようなものなのか。

そう考えれば、この寒さも少しは我慢できるというものだ。

肌を刺す風に口もとをゆがめながら歩を進める私の顔に、瞬間雲間から陽の光が当たった。

眩しさに思わず目を閉じたが、瞼越しにも伝わるその明るさが、いやが上にも春の到来を予感させてくれる。

暖かくなったら何をしよう。

何処へ出かけよう。

俯きながら歩くことを止め、高いところに登って遠くを見渡してみよう。

新しい一歩を踏み出すために「春」という季節があるのなら、厳しく暗い「冬」という季節はその前の助走期間なのだ。

今はしっかりと足下と目指す未来を見定めておこう。

人生の終わりが見え隠れするこの歳になっても、やはり春という季節は心躍らせずにはいられないものなのだ。